インド:精神世界の旅

名前: 小林由典
場所: 千葉県, Japan

直観で発想し、論理思考で徹底追求する物書きです。気持ちは優しいのですが、考え方は厳しいかも。

2009年6月28日日曜日

カトマンズに到着

 ネパールはヒマラヤ山脈の麓という感じで、目的のカトマンズは盆地だった。
 インドと比べると緑も多く、どこかホッとする。

 空港の建物は驚くほど小さく、成田のようにどこに行くのか迷うような事はなく、ポツンと一軒家が建っているといった風情だ。電気もついていない空港は初めてだ。
 簡単なチェックアウトを済ませて、ロビーに出てみると、ガラスのない鉄格子窓から無数の客引きらしい連中が中を覗いていて、ぎょっとする。
 外は夕日が射していて、シルエットになった無数の日焼けした顔と、さしのべられている手。まるで、動物園の檻の中と外状態。

 荷物が搬入されるのを待っていると、台車を連結したカートがやってきて、荷物を人力で仕分け台の上に乗せるのだけれど、扱いが非常に雑だった。
 わたしの小さなザックは金網で内フレームを自作したもので、ナイロン帆布が張りつめているため、コロコロしており、見ている前で荷物の山からコンクリート床に転げ落ちてしまった。

 中にはカメラや電気カミソリなどの文明の利器がはいっているので、肝を冷やしたが、どちらも破損はしていなかった。

 荷物の出てくるのが遅い順番だったせいか、手続きを済ませて外に出ると、空港バスはすでに出発していた。実にいい加減で、乗り遅れた外国人乗客たちは、客引きの格好の餌食となった。

 外人だと法外な運賃をふっかけられるので、いったんロビーに戻り、警備の警官を呼んできて、宿泊予定のコテージ・オーロラのあるディリー・バザールに行くよう、値段の交渉をしてもらった。

 インドでもそうだったが、ここでも警官は強権的で、こん棒を振り回し、悪徳(?単にワイロを使っていないだけか)運転手を排除して、一台のタクシーを紹介してくれた。

 チップを渡すと、この警官は頭をかしげるOKの合図をして、次の観光客の方に向かって行った。

 長いような短いような、全く初めての土地をきょろきょろしながらタクシーに揺られ、ようやく目的のコテージに到着した。

 建物は石塀と鉄の門で閉ざされており、わたしは大声をあげて中の人を呼び出した。
 ほどなく高校生くらいのボーイが出てきて、わたしを迎え入れてくれた。この少年は日本語を日本人の小学生レベルで話せる。(後で分かったのだけれど、年齢は20歳以上で、結婚しているのだとか)

 コテージ・オーロラの女主人藤原黎子さんはモスクワ友好大学に留学中に、カトマンズ出身のご主人ナラヤン・N・バイジャさんと知り合い、後に結婚してここにコテージを開業したという。

 (その後のたよりではお二人は離婚をしており、藤原さんは別な場所でコテージをオープンすべく支援を集めに日本に戻られたそうですが、わたしも仕事で何度か転居しており、連絡が取れなくなってしまいました。)

 ともかくも、安心して食べられる食事と、安眠できる部屋を得られて、ホッとしました。


 

2009年5月2日土曜日

白昼夢のコルカタを歩く

 コルカタの町中を歩いていると、とにかく物乞いやポン引きにつきまとわれて、おちおち歩いていられない。道ばたから声をかけるだけの日本の歓楽街のポン引きなどと違って、しつこくつきまとう。

 物乞いも、行く手に立ちふさがるし、子どもなどは衣服の袖をひっぱるし、レプラやライ病患者の物乞いは病変した手を幽霊のように胸の前に出して迫ってくる。

 時には10人以上徒党を組んで、観光客を取り囲んだり道路をさえぎったりする。
 物見遊山の観光客など、卒倒しかねない情景が日常的に行われ展開しているのだった。


 私は翌日早々にインディアン航空を訊ね、その日の昼に出発する飛行機をブッキングして、ホテルに戻り一安心した。

 とにかくコルカタはぽん引きがしつこくて、歩くのに難儀する。娼婦の客引きがほとんどで、「何人(じん)が好みだ?」と訊いてくる。

 私も俄然興味をもって、「何人(じん)がいるんだ?」と問い返してみると、インド人、ネパール人からフランス人、日本人もいるよ、という。

 「なに?日本人がいる?本当か?」と返答すると、
 「とにかく、来てみなよ!」という。

 「残念だね、私はロシア人が好みだから」というと、

 「アッチャー、ロシア人もいるよ!」と言う。

 そんな連中を押し分け、追い払い歩くと疲れることこの上ない。
 彼らも生きていくために必死なのだろうけど、初めて訪れた異国で訳のわからないところについて行くほどガキではない。

 通りがかりのリキ車を呼び止めて飛び乗り、その場を逃げ出すのだった。


 ホテルで朝食兼早い昼食をとる。
 チキンカレーと、ライスに、ダル・スープという質素なもの。
 注文したときは質素にするつもりはなかったのだが、出されたものは質素そのものだった、ということ。

 チキンカレーはほとんど鶏ガラスープという感じで、それがチキンカレーだとは後まで判らなかった。鶏肉などついてない、鶏ガラが入った、水のように薄いカレー液。

 それをライスにかけるとスッとしみこんでいって、何の具もみえないという感じ。鶏ガラだけ。仕方がないので、ダル豆の味噌汁ふうスープもライスにかけて、スプーンですくって食べた。

 客室ボーイ(といっても厳ついオヤジだが)が食後のチャイを持ってきたので、注文のチキンカレーはどうしたと訊くと、それがそうだとテーブルの鶏ガラスープを指さす。

 ええっ!と、絶句するしかなかったです。

 まいったね、これがインドのカレーかい?という感じ。

 私は早く、コルカタを後にしたくなった。
 日本を出発したときは寒い日だったのに、コルカタはこの時間で気温40度を超す暑さ。

 心細い一人旅もあって、ほっと一息つける場所が欲しいと痛切に感じていた。
 

2009年2月28日土曜日

コルカタからカトマンズに逃げた、旅の始まり

 Pramod Kumar のシタールを紹介するために、いきなり旅の終わりの部分に飛ばしてしまいましたので、途中が欠落しています。

 旅の始まりから順を追って書き進めていきたいと思います。

 タイのバンコックでトランジットして、乗り換えた飛行機はコルカタのダムダム空港に降り立った。 
 Kolkata(当時はカルカッタ)はヒンズー的混沌とアジア的貧困と人口過密国のエネルギーが渦巻く異質な世界だった。



 

 バングラデッシュ上空ではガンジス川河口に広がるデルタ地帯が手に取るように見え、それを過ぎると右手にヒマラヤ山塊の白い頂をながめながら、いよいよインドだという興奮がわき上がるのを抑えきれなかった。

 手荷物を受け取り、空港の銀行でトラベラーチェックをインドルピーに両替して、まず宿泊予定のホテルに予約の電話を入れた。

 これは事前に奄美大島で会ったシチュウからもらった『インドを歩く本』で、リストアップしたものだった。
 彼はネパールがメインの旅だったので、その部分だけ取り外し、インドのページだけ渡してくれた。

 インド人の英語はRの発音がひどい巻き舌になるようだったが、マザータング(母国語)ではなく外国語なので、同じく外国語である私にも理解しやすかった。つまり、猛烈な早口でしゃべるわけではないので分かりやすい。

 ただMercury Travel (マーキュリー・トラベル)をメルクーリィー…というように発音するので、スペルを類推する必要があり、頭が忙しくなる。


 ホテルが予約できたので、その方面に行く空港バスを探した。
 まず、カルチャーショックを受けるのが、乗客以外には女性の姿がほとんどなく、係員は厳つい顔にヒゲをたくわえたベンガル男ばかりだということだ。

 彼らは背が高く、ほおが落ちくぼむほど痩せていて、眉毛も濃く、ニコリともしないで、ほとんど睨み付けるような鋭い目をしている。

 そのうえ、衣類はほとんどがカーキ色、つまり軍隊色一色であること。どこぞの軍事空港にでも迷い込んだか、という世界なのだ。

 しかし、空港内は喧噪はあるものの、意外と整然としている(外と比べれば)。

 けれども一歩建物を出て、バスターミナルに向かおうとすると、まるで飢えた難民の群れかと錯覚しそうな連中が待ちかまえていて、袖を引っ張ってタクシーの客引きをしている。

 何というか、オオカミに取り囲まれたような状態で、普通の人ならパニック症候群に陥るかもしれない。
 私は予備知識を持っていたので、彼らをかき分け、振り払い、追い払いながら、ほうほうの体で目的のバスを探し当て、乗り込んだ。

 バスの窓は護送車のように鉄格子が張り巡らされている。

 インドの道路は人力車やバタバタというオート三輪、歩行者はもちろん牛や水牛、ラクダなど、ときには象が荷物を積んで歩いている。

 空港からの幹線道路は比較的整備されていて、バスはスムーズに走ったが、途中から、市街地に入ると、とたんに混み出してくる。バスは慣れたもので、クラクションを頻繁に鳴らしながら走っていく。

 あるところで、渋滞があり、バスがのろのろ運転になった。気づくと、そこは瓦礫とゴミの山みたいなものが広がっている。バスが止まると、そのゴミの中からわき出したように多くの人間が顔をあげて、こちらを見た。

 これにはさすがにギョッとした。ゴミの中から、人が湧いてくるような錯覚を覚えたからだ。
 早くバスが動き出さないかな、と少しあせるほどだった。

 他の乗客は何事もないように無視しており、奇妙なコントラストを見せていた。

 程なくして、バスはターミナルステーションに到着した。
 前途多難だな、という気持ちを抱いて私はバスを降りたのだった。

 私はすぐにリキシャを呼び、ホテルの場所を言って、まっすぐにホテルに向かった。
 インドの道路は聖人の名前を付けたものが多く、このVivekananda というのも、有名なスワミ・ヴィヴェーカナンダの名にちなんでいる。



 
 記憶では、この辺だったろうなという感じですが、人混みの中をあっちこっち走っていただけなので、正確には分からない。

 ホテルといっても、平屋のコッテージみたいなところで、建物は石造りだけれども内装・調度は日本では考えられないほど粗末なものだった。
 前日の(正確には当日の午前2時すぎに到着している)バンコックでは、深夜ということもあり空いているホテルを探すことができず、やむなく空港に引き返しロビーのイスで仮眠をとっただけ。

 とにかく、部屋で一眠りしたかった。私は、チェックインをすませると転がり込むように部屋に入り、ベッドに横たわってそのまま眠りについた。
 時差の関係と、神経の興奮で寝苦しかったが、ひとまずインドで一息つくことが出来たのだった。

 私は、少なからずカルチャーショックを受けて、ともかく早くネパールに逃れたいなという気になっていた。 

2009年2月25日水曜日

Rag Yaman 以心伝心の意味

 ラーガ・ヤーマンは夕方のラーガです。
 インド音楽をあまり知らない方には、前々回の話は意味が通じない所があるかと思いますので、すこし補足的なことを書いておきます。

 ラーガには時間や曲想が決まり事としてある、ということを以前に解説しましたが、ヤーマンの曲想は喜び・楽しさ・くつろぎといった基本モードがあるのです。

 主音のVadi=Ga、副主音=Ni で、基本旋律のメインは主音を中心にし、発展旋律は副主音を中心に展開されます。

 ラーガはアラップというゆっくりとした出だしの低音弦の演奏から始まり、最後は早いリズムで比較的短い旋律を3回繰り返すティハイでピタリと決め、余韻の部分でアラップのように低音弦をひいて静かに終わります。



 ティハイから始まるエンディングの部分だけの短い動画です。
 私の説明通りのものを見つけてきました。

 この動画では、繰り返しの旋律の中にさらに3回繰り返しを複数入れた「入れ子」構造の旋律で、長めのティハイを構成しています。

 私がIshwara に聴かせたのはDha-Niという低音弦の音なのですが、Yaman の副主音が最後のNi なのです。

 これはどういう意味かといいますと、Ishwara の言葉をティハイに見立て、演奏が無事終わったということを表している、ということなのですね。

 言葉ではフィーリングが説明しにくいので、図説しましょう。



 Dha Dna-Ni を簡単に言えば、

 「分かった、Ishii 、君の気持ちを深く受け止めたよ……」

 ということにでもなるでしょうか。

 言うまでもなくIshwara はRag Yaman などは自在に歌える娘ですから、その意味をすぐに分かるのですね。

 だから、ホッペに口紅スタンプをしたということです。
 吸い付いたりしていませんのでチューではありません。ただのスタンプ。

2009年2月20日金曜日

ガンガの荼毘を見つめて輪廻を思う

 バラナシで30歳の誕生日を迎えていた私ではあったが、それで分別くさい男になっていたわけではなかったと思う。
 Guru Jii の家庭はベジタリアンであり、そこに寄宿していた私は食生活の違いから10キロ以上も体重が落ちて、貧血状態になっていたのだった。

 アルゼンチンの弟弟子は、「自分の国では朝から1キログラムのステーキを食っていた」と話し、栄養失調になるからと時々中華料理店で夕食をとっていた。

 私も1、2度付き合わされたが、麺類を食べるにとどめていた。

 それというのも、ベジタリアンの食生活をしていると、体質的なものが植物的にというか陰性体質になってきて、ある種の感覚が鋭くなることが分かってきたからだ。

 肉食をしていて体が脂ぎっている時には分からない第六感のような、感じる能力が強まってくるのだった。それはインド音楽のラーガ(心を彩るもの)というものを理解する上で、必要な能力だろうなと思えた。

 季節的な要素、一日の時間帯の要素、そういったものがラーガの要素として規定されている。インド音楽では「Nada Brahma」つまり、音(音楽)=神(の声)という考えであり、心を無にするためには、脂ぎっていては邪念・雑念が生じやすい。それが、植物的になると、こころが平静になりやすいし、瞑想なんかもすっと入りやすい。
私は、貧血になりながらも、それと引き替えに増してくるそのような感覚をむしろ大切にしたかった。

だから、Guru Jii の言いつけを守り、Ishwara には触れないように自制が利いていたのだと思う。気持ちは熱くなりかけていたけれども、体は貧血状態…。

そうでなければ、持ち前の好奇心から、サリーの下には下着を着けていないという話が本当かどうか、絶対に尻に触って確かめていたはずだ。

そういう元気がなかったということになる。

次の日、私はリキシャに乗って、ゴドーリア地区に舞い戻り、あの親子がどうなっているのかを確かめに行った。

(上の写真はリキシャに乗って、裸足で木製のペダルを踏んでいるリキシャマンの脚を写したもの。…別の時期に撮影している)

 男の死体は元のように、道ばたに寄せられており、ムシロが被せられていた。はみ出している足のすねは骨と皮ばかりという感じで、乾ききった空気と暑い日差しのせいで、既に半ばミイラのような状態になっている。
 そして、ムシロの上には幾ばくかの小銭が集まっていた。
 傍には、涙も出なくなった子どもが、両膝を抱えてうずくまっている。


 近くの屋台で私はサモサという、具の詰まった揚げ物を一袋買い求め、遺体の傍を通りすがる刹那におつりの小銭とサモサの袋をゴザの上に落として、そのままダサスワメート・ガートに入っていった。

 いつものようにガンガ(ガンジス川)チャイを飲んでいると、顔を見知っている子どもが近寄ってきて、「また帰ってきたの?」と話しかけてきた。

 私は少年に、「あそこで作業をする人を知っているか?」と、火葬台を指さして訊ねた。

 少年は黙って首をかしげた。

 「アッチャー、その人を連れてきてくれ」といってその子に10パイサのチップをあげた。

 ほどなく、少年が一人の男をつれてくるのが見えたので、私は立ち上がって階段の上の方に歩き出し、通りが見えるところまで男を従えて歩き…

 「仕事をしてくれ」といって、男に5ルピーを渡して、あごで30メートルほど先の男の遺体の方を示して見せた。

 「薪が足りなければ、そのお金から充足してくれ」とも言ったが、言葉はほとんど通じていないようだった。しかし、荼毘に付すようにという意味は、自分の仕事がら理解したようだった。

 男は、黙って首をかしげて「ハーン」(Yes)といって、お金を乗せた手のひらを合わせて、私に合掌した。

 私も黙って、首をかしげてから、道ばたのバザールのほうに歩いていった。

 葬送用の花飾りを2つほど買い求めると、私は引き返し、男の遺体の頭付近に一つを置いて、もう一つは私を見上げている男の子に黙って手渡した。

 私はすぐにその場を離れ、少し離れた通称ガバメント・ショップ(州政府の店)でバクダンという餡(あん)玉を2コ買って、ガートのチャイ屋台にとって返した。2杯目のチャイを飲みながら、バクダンを一つ口に入れ、チャイで溶かすようにして飲み込んだ。

 バクダンには我が国ではご禁制の植物成分が練り込まれており、多少ヤバイものかもしれない。しかしバラナシでは公然と売られており、それよりも酒の方が禁止されているのだ。私たち外国人は、牢屋のように鉄格子で仕切られた酒屋で、パスポートを提示すれば酒は買えたけれど…。

 私は、ぼんやりとガンガの悠久の流れを眺めながら、考え事をしていた。

 灼熱の路上で棒きれのように死んで干涸らびている人間扱いされない人間がいる。
 この地で死ぬために、はるばる人生最後の巡礼の旅をして、道ばたでその時を待っている人間がいる。
 投げ与えられた食べ物を、犬と奪い合って食いつないでいる子どもがいる。
 ガンガの水に、仰向けになって浮きながらヨガの瞑想にふけっているサドゥーがいる。
 この過酷な世界から隔てられた深窓では、恋に恋し、結婚を夢見る娘たちがいる。
 その表面を、好奇心のままに写真を撮っている旅行者たち。
 世間に背を向け、ひたすら音楽の修行に明け暮れている人たちもいる。


 私はIshwara にいろいろなことを話しすぎたかな、と思い始めた。彼女は外の世界を知りたがっている。
 というより、インドの狭い女社会を飛び出したがっている。家の中と、買い物のバザールしか知らなくて良いという人生。召使いがいれば、バザールに行くこともない。恋愛もなく、親が決めた結婚をするだけ。娯楽は映画か読書。

 火葬台では、あの男が焼かれていた。地面から、通りすがる人たちの顔を見上げるだけだった一生。
 ただひたすら、悪をなさず、「来世には豊かな生活が送れる階級に生まれ変われること」を願い続けた、長い悪夢のような人生。

 バスの旅で荷物を盗まれた後、私は日本人のツアー旅行者から35ミリのカメラを買い受けていた。
 そのカメラで、ガートやリキシャマンの写真、その他観光客的写真を何枚か撮ってはいたが、あまりに過酷な現実を見ているうちに、写真を撮ることができなくなってしまった。

 それで、コルカタの東京銀行に送金を受け取りに言った際に、ブラックマーケットでそのカメラを売り払ってしまったほどだ。

 コルカタでラジカセ用の電池を買い求め、バラナシに戻って使ってみたところ2、3日で電池切れを起こしてしまった。その事を、Guru Jii との雑談の中で話したところ、

 「それが、インドの現実だ。あと100年もたてば、インドも変わるだろう…」という答えが返ってきた。
 
 時間感覚が違いすぎるのだった。


 ヒンズー世界では、グル(導師)という存在は、我が国の徒弟制度の親方以上の存在だった。グルの言うことに、疑問を呈してもいけないとされる。

 そのグルの愛娘と恋愛するということは、すなわち結婚しなければいけないということになってしまう。

 実は、私はこの旅に出る前に付き合っていた女性がいた。けれども、束縛を感じるようになって、その人を捨ててネパールのヒマラヤトレッキングに出てしまった。

 そして1年前、カトマンズのスワヤンブナート寺院のチベット人僧院で見たKatmandhu 盆地の夕暮れの光景に、親兄弟を捨てて、この地で一生暮らしてもいいとさえ思った根無し草の人間だった。

 そういう人間が、Ishwara のような世間知らずの娘と一緒になって、どうなるのか想像もつかなかった。

 インド文明と対極にあるニューヨークには、同級生のフリージャズメンが滞在しており、「バドワイザーを飲みながら食うTボーンステーキは最高さ!」などという手紙を、インドで読んでいた。私は対極の社会、ニューヨークにも行きたいと考えていた。

 私は、帰りのチケットが日本経由ロサンゼルス行きだったので、そのままロスまで行き、ニューヨークで彼らと合流して、居着いてしまうかもしれないボヘミアンなのだ。


 バクダンのせいか、時間感覚を失った気分で、火葬台で男が煙を上げて燃えていくのを眺め続けた。
 仕事人が、火の外に飛び出した男の足を、素手でつかんで折り曲げるようにして火の中に戻している。

 死んでしまえば、生ゴミでしかない人の体。わが身とて、違いはない。
 仏陀は、美しく魅惑の女でも、薄皮一枚下はみな同じだと、実に、にべもなく説いている。

 ガンガの流れを見つめながら、来し方行く末を考える暑い日だった。

2009年2月19日木曜日

夢が思い出させた、情景

 しばらくインドの追憶をしていたせいか、昨夜当時の夢を見てしまいました。
 それで、忘れていたことを思い出したのですが。

 ダサワメート・ガートでゴパールと別れた私は、久しぶりにシーク教徒のオヤジのレストランで食事をしました。
 ゴパールはブラーマン階級ですので、外食ができない。ブラーマンが経営するレストランなどインドではあり得なかったからです。
 ですから、グルジーと街を歩いていても、チャイ一杯さえ飲むことができないのですね。ちょっと道ばたのチャイ屋さんで、通行人を見ながら一休みができない。味気ないと思いますが…



 レストランと言っても、このような造りで、食堂といった方が良い。

 この写真は店先でプーリという、直径12、3センチの揚げパンを揚げているところ。
 南米のトルティーヤと同じようなもので、それを油で揚げて、具を載せて食べる。

 どこの食堂でも、店先にはナンを焼くタンドールというナン焼き釜があり、専門のオヤジがナンを焼いている光景が見られる。ナンの他には、タンドリーチキンも焼いたりする。

 インドの食堂には、給仕だけでなく、水運びボーイ、掃除ボーイなど、ひとつひとつの仕事専門の人間が仕事をしている。

 水を運んでくる人間に注文をしても、全く聞こえないふりをして行ってしまう。注文取りに来るまで、ジッと待っている方が間違いがなくて良い。

 コルカタでは、禁酒のバラナシと違って酒が飲めるバーがあり、毎日通ったのですが、ボーイと言っても身長が180センチ以上の、厳つい顔をした黒肌の男たちばかりで、目つきが鋭く、ニコリともせずタジタジとなります。

 食堂は混んでいて、一人の男がすわっているテーブルでの相席となった。英語で軽く挨拶して、腰をかけ、待っているが、水は来たものの注文取りがなかなか来ない。

 ふと気づくと、相席の男がジッと私を見ている。

 私が「そちらの注文は終わってる?」と声をかけてみたが、肌黒のその男は全く表情を変えず、返事もせず、身動きもしないで私を見続けている。
 私を見るというより、まっすぐ前の中空を見ているのかもしれない。
 たぶん、言葉がまったく通じないのだろう。

 インドでは、このような視線をイヤと言うほど浴びる。
 そして、どこに行っても、男ばかり。

 女性は、おばさんが買い物に出歩くので見かけるが、若い女性は全く見かけない。
 朝夕通学の小学生くらいしか、女の子は見かけない。

 そして、外国人には異様に感じるのだけれども、若い男同士が手をつないで歩いていることが多い。

 女性から隔絶されていて、必然的にそうなっているのだろう。

 私は、彼らがハリジャンに対してそうするように、インド人の遠慮会釈ない視線に対しては全く無視する方策をとることにしていた。
 その人間がそこにいないかのように無視するのだ。
 バザールなどを歩いていて、物売りがうるさく声をかけてくる時も、全く無視することもあった。

 そのような処し方を身につけていないと、この地ではとてもやっていけない。
 それにしても、そんな視線を受けながら食事をするのは、楽しくないのは当然だった。

 帰り際、支払いを済ませて店を出ると、道路と店の間の狭いところで、木の葉に盛られたライスとカレーを手で食べている男が目についた。
 この埃っぽい道ばたに座り込んで、地面に木の葉の皿を置いて、食べているのだ。

 彼らは、シーク教徒よりもはるかに身分の低いリキシャマンなどであり、店にはいることが許されておらず、同じお金を払っても外で食事をしなければならない。


 先ほど相席だった男も、多分色が白くて英語をしゃべる私と、肌の黒い自分とを勘案して、一切口をきいてはまずいと思ったのかもしれない。

 ところで、大多数のリキシャマンは路上生活者なのですね。
 夕方になると、道路脇の石壁に沿ってリキシャを止めて、布きれを張り巡らせて、リキシャの席で夜を過ごす。
 女房・子どもがいるリキシャマンもいて、どうやって暮らしているのかと思うが、路上で牛糞を燃料に炊事をして、リキシャの中で食事をしているのだった。



 グルの家に戻ったのは午後になってからだった。
 
 待ちかまえていたようにIshwara がやって来たが、なんとチャイを運んできて私の前に置いたのだった。
 下男の場合は決して部屋には入らず、声をかけて入り口のところに置いていくので、取りに行く手間がかかる。

 「Isshi 初めてのことだね。君が給仕してくれたチャイは、最高に美味しく感じる…」そう言って、私はゴザの上にカップを置いた。

Ishwara は、窓から外を眺めるように佇み、ちらっと振り向いて笑顔を見せると、また窓の外を見ている。

彼女が訊きたいことは分かっていた。
前の日のグルジーの話について…


この時、何といったのかずっと思い出せないでいた。
それが、初めに述べたように昨夜(というより今朝)の夢で思い出したのだった。

私はこの時、相当に舞い上がっていたようだ。
敬愛するGuru の美しい娘が自分の恋人になり、結婚するのかという状況で、
夢の中ではIshwara を愛しく思う気持ちを自分が抱いていたことがハッキリ分かった。
そして、この時自分が何を言ったかも、夢の中でもう一度しゃべったのを、今は覚えている。


 結論から先に言うと、「必ずあなたを迎えに来るよ…」と言った。
 そして、日本に帰った私は「その約束を反故にしてしまったのだった」

 思い出したくない、無責任な言動だったかもしれないのだけれども、Ishwara には長い手紙を書いて、謝罪をしている。
 帰国した私を待っていたのはガンで倒れた母の看病生活であり、「少しでも回復する見込みのある手を尽くして欲しい」という願いにそって、病院の治療以外にも、丸山ワクチンとか、蓮見ワクチンだとか、経済的に破綻するのも覚悟でガン治療に駆け回った。

 とても、Guru Jii 一家を日本に呼んで、結婚式を挙げるという状況にはなかった。私はIshwara が無為に年をとって、婚期を逃さないよう、私を待たないで欲しいと、書いて送った。 


 夢で、この時の記憶が再生されたのだが、私はいろいろとこの時に話をしている。

 私はいつものようにシタールを抱えて、話をした。
 若い娘と面と向かって話をするのが気恥ずかしかったから。

 ときどき、弦をはじいて意味のない音を出したりして、多分伏し目がちに話したはずだ。


 「Isshi 、本当は、初めて会った時、君の笑顔を見た瞬間に魅了されていた…
 でも、君はGuru Jii の愛娘。僕は、いずれ日本に帰る旅人だ。

 最初から、高嶺の花だと思っていたので、親しく話ができるだけで、十分だと思っていた…

 きみの素敵な舞を見て、君はインドに根付いている花だと知らされたよ。

 インドは懐の深い国で、誰でも受け入れてくれるけれど、日本という国は排他的なビレッジに過ぎない…」

 私はチャイを飲み干した。

 「Isshii 、君は母国語も、英語も失うことができる?
  言葉だけでない。君の素敵な舞も、ボーカルも失うことになる。」

 「それに、僕は安定した仕事を捨ててインドに来た。もはや、そういう仕事に就こうとはのぞまない。社会をドロップアウトして、食べていけなくとも良いから表現者としての道を進もうとしている」


 実際に、ここまでしゃべったのだけれども、夢の中のIshwara は、私の左腕にすがって、
 「まだ、そんなことを言っているの?」と、私に言ったのだった。

 実際に起こったことは、そうではなかった。

 先に貼り付けた連続写真のようにゆっくりとこちらを振り向いて、私をジッと見つめるのだった。

Ishwara は低い声で、
「インドの女は哀しいわ。自分の人生を生きることができない。
 よその州に行けば、言葉も文化もちがう。

 だったら、日本でもいいの。

 問題は、あなたが私を愛してくれるかどうか、だけよ。 ヨッシー」


 私はIshwara の気持ちに圧倒されていた。
 シタールのフレットを見上げるようにして、夕方のラーガ「Yaman Karyan 」のアラップの出だし、低音部2番弦のDha Dha-Ni と弾いた。


 「Guru Jii が、挨拶をすることは、かまわないって…」

 そう言うと、Ishwara は、私の前に膝をついて、右手を私の頭の後ろに回し、私の右頬に唇を強く押しつけると、さっと立ち上がって、部屋を出て行った。

 私はポカンとしたまま、Ishwara が残していった耳飾りの花の香りと、サリーから立ち上がってきた女の匂いと、そして頬に残された唇の感触と、それらの余韻にひたるばかりだった。

 

 

2009年2月13日金曜日

インド的混沌とそのゆがみ

 このブログに適した写真をプロフィールに使ってみましたが、タナゴ釣りフリークの龍谷さんから、今のイメージと重ならないと冷やかされてしまいました。
  ε- (^、^; ふぅー まあ、一服でも。

 まさか勘違いする人もいないでしょうが、当時の写真ですから、現在の私ではありません。
 プロフィール設定が個々のブログごとにできませんので、他のブログでは合わないわけですね。


 さて、インド亜大陸は中央アジアからの民族的圧力を受け続けた歴史があるため、世界でも例のない多民族国家を形成しています。北にアジアとヨーロッパを結ぶシルクロードに接して、常に他民族が北から侵攻してくる。

 先住民族は南へ南へと押しやられて、複雑な地層のような民族分布を示しています。使われている言語は300を超えるといいます。一般的に、南に行くほど肌の色が黒いとか言われますが、南でもムンバイとか、ケララ州などは色の白い民族がいます。

 インド映画は世界最大のマーケットを持っており、制作本数から言えばアメリカなど問題ではありません。インド映画の特徴は、オールインワン形式だということですね。

 ストーリーの中に、喜劇・悲劇・活劇そして歌と踊りと恋愛ものすべてがそろっているのが普通です。
 そして俳優さんですが主役級はもちろん、ほとんどが肌が白い人たちです。


 特に女優さんは肌が白いことが絶対条件ですね。そして、近年の傾向として西洋人のような目の色をしている女優さんが好まれるようです。
 これを見れば、インド人というイメージがかなり違ってくるでしょうね。

 私たちがすぐに思い浮かべる頭にターバンを巻いた色白のインド人は、インドでは3%程度しかいないシーク教徒です。

 彼らは商人階級に属しているために、世界中にビジネスで行き来しておりインド商人として有名ですが、人口からいえばごく少数派です。

 しかし、主立ったレストランや劇場、その他商売関係ではビジネスオーナーになっていることが多く、それだけ目立つわけですね。



 Ishwaraに似ていると、画像を拝借した左の女優さんは、名前も同じでAishwarya Rai という、今インドでもっとも有名というか、世界中で知られている女優さんです。


 彼女は1973年、南インドのカルナタカ 州の Mangalor生まれ。

 1994年のミスワールドで、身長170センチ、今年36歳になります。

 母親が美人の産地として知られる北インドはカシミール出身で、母親似ですね。

 確かにカシミールの人という感じがします。

 私は避暑でカシミールの景勝地スリナガールに行き、ひと夏を釣り三昧で過ごしましたが、男も草刈正雄タイプのいい男がたくさんいました。

 残念なことに、民衆はイスラム教(王国時代に国王は国教としてヒンズーに改宗しているので、州としてはヒンズー教)ですので、女性は黒いベールを被っており、写真撮影も拒否しますので、写真が撮れなかった…


 バラナシのIshwaraは黒目ですし、髪も染めていない黒髪が腰まであり、唇もキリっとした唇で、Aishwarya ほど華やかではありませんでしたが、本人と身近に接してきているので印象が強かったです。

 
 帰りの路上で、心痛む光景を目にした。
 朝来る時に道ばたで息絶えていた男のそばに7、8歳くらいの男の子が寄り添っていて、牛とやり合っているのだった。

 腹をすかせた牛が、死んだ男の綿服に食いついてちぎり取ろうとしていたのである。少年はその男の息子らしく、必死に牛を追い払おうとしていたが牛にはかなわず、男の死体は牛に振り回されていた。

 どうにもならなくなって、とうとう少年は両膝を地面について泣き始めた。

 父親が亡くなっただけでも悲しく途方に暮れることに違いない。
 その遺体が、腹を空かせた牛に引きづり回されているのを見るのは、この小さな子には容赦のない悪夢であるはずだ。

 しかし牛はヒンドゥー世界では聖なる生き物であり、蹴飛ばして追い払うわけにはいかない。これが牛ではなく、バッファロー(水牛)であったなら、棒で殴ることもできる。

 そして、死んだ男はアウトカーストの人間。マハトマ・ガンディーがハリジャン(神の子)と命名したアンタッチャブル(不可触賤民と訳されている)なのだ。

 彼らはカーストの人間からすると、見ても穢(けが)れるとされ、路傍の石のように無視される定めを負っている。子どもがいくら泣こうが叫ぼうが、誰も助けないし、見もしないし気付いたそぶりも見せない。

 彼らを車でひき殺したとしても、人間扱いされていないために罪に問われない世界での出来事なのだから。

 この子は明日から、ガート近くで死を待つ老人たちに与えられる喜捨のチャパティの屑を、飢えて痩せている犬と奪い合って命をつながなければならない。
 インドの犬は空腹で凶暴だし、噛みつかれて狂犬病にでもなったら明日はお前の姿かもしれない…
 そうならないことを祈るしかなかった。

 バラナシは田舎町だし、ヒンドゥーの聖地であるから、飢えに苦しみながらも喜捨を頼りに小さな子ども1人でも生きられるだろう。

 しかし、これがコルカタであったなら、我々日本人には想像を絶する悲惨な将来が待っているかもしれない。子どもを見せ物にする親方のようなヤツがいて、その子たちは両手がなかったり、両足がなかったり、さらには見るのもおぞましい奇形にされて、衆目にさらされながら喜捨を受け、親方の収益となる。

 親切な大人に出会う経験をしたなら、そういう人さらいに引っかかることにもなりかねない。親切な大人になど出会わない方がいいのだ。子ども同士の仲間になって、せいぜい観光客のお布施をかせいだり、のっぴきならない時は泥棒をしてでも食う道を探してくれ、としか言えないのだった。

 インドでは、涙などはすぐさま干上がってしまう過酷な現実がある。